2017/05/11

第46回歴史講演会開催報告 

 ゴールデンウイークの最終日でしたが72名の方が参加して下さいました。内初参加者は25名、小学生も6名参加しました。
 講師の岡田幹彦先生より、終戦の御聖断について、戦争は始めるよりも止める時の方が難しい事。二度にわたる御前会議で、昭和天皇が「自分はいかになろうとも万民の生命を助けたい」とのご決断で戦争が終結できたことを詳しくお話頂きました。
 なぜ御前会議で意見が分かれたのか。ポツダム宣言には皇室の存続や昭和天皇の身柄の保証が無かったからであり、バーンズ回答でも不明確であったからで、戦争の終結も継続も「国体の護持=皇室の存続」の一点にあったのでした。つまり、天皇の命の保証が無いにも関わらず、昭和天皇はご自分の生命よりも国民の生命を助けたいと考えられて終戦のご決断を下されたのでした。
 又、占領軍マッカーサー司令官とのご会見も、その内容は秘密にされていたのですが、10年後にマッカーサー自身の発言や元外務次官の記録、マッカーサーの副官の証言から明らかになりました。それは昭和天皇ご自身が戦争の全責任を取るというものでした。その代わり軍人、政治家、国民の生命を助けてもらいたいというものでした。その言葉にマッカーサーは「骨の髄まで感動した」「私は初めて神の如き帝王を見た」と昭和天皇への驚きと感動を述べています。だからこそ傲慢不遜のマッカーサーが帰りには出口まで陛下を見送られたのでした。
 国民もまた昭和天皇を戦犯として処刑しないよう、マッカーサー司令官に嘆願書、直訴状を出しました。その数約1千通。中には血判や血書で書かれた物もありました。天皇は国民のために生命を投げ出され、国民は天皇を救うために身を顧みず、皇室と国民の絆はまさに親子の絆でした。本土決戦の回避も食糧難に餓死者を出さなかったことも、日本に天皇陛下がいたからできたことであり、天皇陛下でなければできないことでした。
 昭和天皇のご存在こそ戦後日本復興の原動力であったことは、日本人よりむしろ外国人が理解し絶賛しているのです。
①ロペス・メキシコ大統領(昭和53年)
「日本は第二次大戦に敗けて全国焦土となった。その瓦礫の中から起ち上がったのは、30年にしてかくの如く復興、繁栄した。そのわけがどうしても私には分からなかった。それが今度日本へ来て天皇陛下とゆっくりお話し合ってみて、その謎がことごとく氷解した。今日の日本のこの繁栄は、みんなあの方のお力ですよ。私はこれを日本の皆さんへの置土産にして明日は国へ帰ります。」
(入江相政『いくたびの春』TBS ブリタニカ)
②ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世(昭和56年)
「私は陛下が無益な受難が起こらぬようにするため、先の大戦を終わらせようと断固たる努力を払い、そしてすべての国民に代わってひとりで戦争の責任を引き受けようと申し出られた陛下の高貴な御態度に格別の尊敬を表します。」(『聖帝昭和天皇をあおぐ』日本を守る国民会議)
③李登輝前台湾総統
「昭和天皇の御製の中に
ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ
というのがある。この言葉も実に素晴らしい。見事に『勇』と『義』がこの名歌の中で止揚されて、さらなる上の高い次元にまで到達しています。昭和天皇もまた『武士道』を最もよく体現されていた存在だと思います。そうでなければ、あのマッカーサーを立ちどころに心服させることなど到底不可能であったでしょう。」(李登輝『「武士道」解題』小学館)
 
 かつてない国難に一身を捧げられて国家国民を救い、国柄を護り抜かれた昭和天皇。その無私と至誠、国民への大慈大愛が国と国民を救いました。最大の国家存亡の危機において国論をまとめ、国家の分裂を防ぎ、国家国民を一つに統合し得たのは、まさに昭和天皇のお力に他なりません。いかなる卓越した政治家も及ばない比類なきご存在。それが天皇であり、皇室なくして日本の存立はあり得ないことを、この度の講演会を通して改めて感じることができました。
 講師の岡田先生には2時間以上にわたり小学生にもわかりやすくお話頂き、参加者一同改めて皇室の有り難さ、日本国の素晴らしさを学び、日本に生まれた幸せを実感した次第です。そして、このような素晴らしい日本の国柄を学ぶ機会は大変少ないので、これからも歴史講演会を通して多くの県民に日本の素晴らしい歴史と伝統、文化をお伝えしたいと思った次第です。
            以上 代表世話人 菅田彰人