菅田代表提言 第34回
大東亜戦争 その2
令和7年8月12日
今年は終戦80周年とのことで、多くのメディアが大東亜戦争について特集を組んでおりますが、殆どの内容が、「当時の日本は戦争に前のめりであった」「自ら戦争に突き進んでいった」との誤った認識で始まっていることは実に残念です。今回は、何故日米戦争が不可避だったのかについて述べたいと思います。
日露戦争後、アメリカは急激に反日に転じます。その大きな原因は、満州鉄道を日米共同で経営するというアメリカの鉄道王ハリマンの提案を日本政府は一旦受け入れて仮調印したにも関わらず、外務大臣小村寿太郎の反対にあって反故にされたという事に対する恨みがあったからだという事は間違い無いと思います。これで小村寿太郎の評価は少し下がってしまいます。しかし実は児玉源太郎も共同経営に反対していたということはあまり知られておりません。
写真: 小村寿太郎 児玉源太郎
アメリカは日露戦争時、日本の外債を大量に購入してくれました。ジェイコブシフ(ユダヤ系大金融資本家)などは、明治天皇から旭日大綬章まで授与されております。アメリカにとってみれば「日露戦争に日本が勝利できたのは誰のお陰か。アメリカ大統領(セオドア・ルーズベルト)が日露の仲裁に努め、莫大な資金を提供したのはアメリカだぞ。」という思いは当然であります。
しかし小村寿太郎や児玉源太郎にとっては日本の将兵が大量の血と汗を流して獲得した満州鉄道を、共同経営を許せばいずれ資本力の強いアメリカに乗っ取られるとの危惧があったのも当然です。
この一件で初めてアメリカが反日に転向したのかと思いきや、さにあらず。アメリカは日露戦争の7年も前から対日戦争計画(オレンジ計画)を策定しておりまして、日露戦争後に本格的に研究が進められました。オレンジ計画はアルフレッド・マハンの「海上権力史論」に基づいて研究が進められ、アメリカはこの計画通りに日本と戦ったのです。
また日露戦争後にアメリカが制定した排日移民法は日米の離間を決定的にしました。渋沢栄一は老体に鞭打って日米関係の修復に努めましたが、全て水泡に帰してしまいます。彼は次のように語っております「70年前にアメリカ排斥(尊王攘夷運動)をしたが、当時の考えを思い続けていたほうが良かったかというような考えを起こさざるを得ないのであります。」渋沢のアメリカへの思いは、一方通行の片思いであり[美しい誤解]であったと痛嘆したのであります。
昭和天皇は、日米戦争の遠因は排日移民法にあったと述懐されております。日本は日米戦争回避を真剣に考えて行動していましたが、アメリカは何としても日本と戦争をやり、叩き潰すことを考えていたのですから戦争回避は無理でした。
次回もう少し開戦に至る経緯を述べたいと思います。菅田拝
■補足説明
アルフレッド・マハン『海上権力史論』
アメリカ合衆国の海軍軍人・歴史家・地政学者。歴史を研究した結果、海上を支配する者が勝者となるとの結論に達する。マハンは幕末の日本に来て、イギリス公使のパークス暗殺未遂事件等を知り、日本は野蛮な国だと思ってしまう。日露戦争時の作戦参謀秋山真之もマハンから教えを受けている。
■訂正
第31回の記事でトヨタ自動車が4,000億円の消費税還付を受けていると書きましたが実際は約6,000億円で、豊田市の税務署の赤字が4,044億円でした。豊田税務署の赤字額は日本一だそうです。(2021年のデータ) *本文訂正済み。