菅田代表提言 第38回
アンドレ・マルローの予言 2
前回紹介したフランス人で文化大臣まで務めた親日家のアンドレ・マルローが「日本が世界を救う」と言い残して亡くなった件についてその理由を掘り下げたく思います。
浄土宗の開祖である法然上人(平安時代末期から鎌倉時代初期)の父、漆間時国は武士であり、敵の夜討ちにあい非業の死を遂げるのですが、落命寸前に9歳の幼き法然に「決して仇を討ってはならない、恨みに恨みを持つことなかれ、早く俗世を離れ出家し、仏道を求め我が菩薩を弔え」と言い残しました。これは武士としては異例の事ですが、仇を討てば報復の連鎖が起きる事を、父の時国は分かっていたのでしょう。
しかし日本には赤穂浪士の仇討ちという有名な物語があるではないかと言われそうですが、これには深い訳があります。大石内蔵助は赤穂藩再興を最優先に考えており、それが叶わないとなって初めて吉良上野介への仇討ちを決断したのです。当時は喧嘩両成敗が基本でした。しかし「浅野内匠頭は即日切腹、吉良上野介はお咎めなし」との裁きが下り、これに赤穂藩は納得が出来ませんでした。仇討ちは、幕府に対する抗議の意味もあったのです。
以前私は浅野内匠頭と四十七士のお墓がある東京都高輪の泉岳寺を訪ねた事があります。資料館の人から「赤穂浪士は吉良の首は取ったが、その遺体はきちんと布団に横たわらせて帰陣した」という説明を聞き、「流石は山鹿素行に武士道を学んだ赤穂藩士だけの事はあるな。」と感心しました。
明治天皇の御製に
「国のため あだなす仇は くだくとも いつくしむべき 事なわすれそ」
というものがありますが、赤穂浪士の行為はこの御製にピッタリ当てはまるものだと思います。
平安時代の学者、政治家であり、学問の神様として全国の天満宮に祀られる菅原道真の和歌に
「心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や護らん」
というものがあります。
AIに日本の様々な歴史や「誠の心」を学習させれば日本人の行動もかなりの確率で予想出来るようになると思います。
次回も続きを書きます。菅田拝










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