2024/11/02

菅田代表提言 第25回 虚構の南京大虐殺 その3

 菅田代表提言 第25

虚構の南京大虐殺 その3

令和611月2


 極東国際軍事裁判(東京裁判1946-1948)で南京事件を取り上げると言う事になり、中国で[南京敵人罪行調査委員会]と言う組織が作られました。敵人とは日本軍のことで、文字通り南京に於ける日本軍の犯罪行為を調査する委員会です。そして日本軍の非道、残虐行為を告発しなさいと南京市民に呼びかけました。しかし『冬の蝉のごとく口をつぐみて言わず』と報告するしかなかったのです。

 中国側はこれではマズイと思い、紅卍字会と言う慈善団体が死体を埋葬したと言う事にして一覧表を作成しました。そして約4万5千体の虐殺死体を埋葬した事にしました。それから崇善堂と言う葬儀社が11万2千数百人を埋葬した事にしました。ちなみこの崇善堂と言う葬儀社は、阿羅健一先生が、南京市の書類を研究して当時休業していた事が証明されております。また魯甦と言う人物が、日本軍が中国軍と南京の男女老幼を虐殺するのを見たと証言しました。その数は57,418人と、一桁迄答えたのです。しかも[咫尺(しせき)則ち目前]で見ていて自分だけ助かったと言うのですから、これは笑い話にもなりません。それから二人の材木屋が28,730体の死体を埋葬したと言う証言もありました。

 これらの嘘っぱちな話しが重なって34万人虐殺したと言う事になったのです。これでは余りにも嘘くさいので、東京裁判法廷は南京事件は日本軍が20万人以上の一般市民を虐殺したと判決しました。しかるに松井大将に対する判決はどうかと言うと、貴官が統率した日本軍は10万人以上を虐殺した、とさらに半分にねぎっているのです。これが東京裁判の実態です。

 支那事変勃発から終戦に至るまで、日中間には何度も和平工作がなされましたが、その間南京大虐殺について話題になった事は一度もなく、汪精衛は蒋介石と別れて、南京に親日政権を樹立しております。これらの事実を見れば南京大虐殺が虚構である事がわかると思います。

 昭和の聖将と呼ばれた松井石根大将は、南京陥落後、戦陣に散った日中双方の将兵の御霊を慰めたいと激戦地の土を集めさせて持ち帰り、日本の土と練り混ぜて伊豆の熱海に興亜観音像を建立しました(昭和15年)。それには「怨親平等(おんしんびょうどう)」と書かれております。これは敵も味方も同じように処遇するという意味です。松井大将は昭和20年に戦犯として逮捕されるまでの5年間、毎日15分かけて山を登り、興亜観音にお参りし観音経をあげていたそうです。

 

興亜観音像

松井石根大将

 蒋介石は「政治は軍事より重し、宣伝は政治より重し」と言ったそうです。日本人も少し蒋介石を見習って、宣伝に力点を置かなければならないと思います。


菅田拝



2024/10/06

菅田代表提言 第24回 虚構の南京大虐殺 その2

 菅田代表提言 第24

虚構の南京大虐殺 その2

令和6106

 

 

 今回も南京大虐殺の虚構について書きます。

昭和1212月に中国の首都南京が、日本軍の攻撃によって陥落します。日本からは120人のマスコミ関係者が、また少し遅れて大宅壮一、西条八十、林芙美子、小林秀雄、石川達三ら多くの小説家、評論家も南京に入城しました。しかし誰一人として大虐殺なるものを見ておりません。

当時の朝日新聞社は「平和甦る南京」の写真特集を1ヶ月に5回も増刊号として出版しており、その写真には疎開していた南京市民が帰ってくるもの、農夫が畑を耕しているもの、日本人が中国の傷病兵を看病しているもの、日本兵と中国の子供が楽しそうに遊んでいるもの等が有ります。これらは第一級の資料です。こう申しますと左翼陣営から「大虐殺の写真もある」と、反論されそうですが、それらの写真は全て捏造写真である事が、科学的に証明されております。では何故未だに「南京大虐殺」の嘘が罷り通っているのか。

まず日本の歴史教科書に「南京事件」(一部教科書を除く)が書かれていて、中国も日本が「南京事件があった」と言っているので、これを教科書で教えるようになりました。信じられない事ですが、中国より先に日本の教科書に南京事件が書かれたのです。

江沢民主席時代(1989~2002)から本格的な反日教育がはじまり、日本の政治家の無知に付け込んでこれを外交で最大限に利用しました。しかし無かったものは無かったのです。

少し例を挙げてみますと、東京裁判で米国人ベイツ金陵大学(南京大学)教授は、「南京の至る所に死体があった」と証言しておりますが、南京陥落後東京日日新聞の取材の時にベイツ教授は、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」と言っております。ベイツ教授がアメリカの記者に嘘のメモを渡した為に、一時期南京で不法行為があったと新聞に書かれた事がありましたが、後に嘘話だということが分かり沈静化しました。また、彼は後に国民党中央政府の顧問だった事が判明しました。

また南京の安全区に居たドイツ人、ラーべ委員長(南京攻略戦の際、他の十数人の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会の委員長となり、中国民間人の保護に努めた。)は、日本軍に次のような書簡を送っています「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃しなかったという美挙に対して、また中国人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりました事に対して感謝の意を表するものであります」またラーべ委員長は日本軍に、安全区を攻撃しなかった事に感謝して、感謝状を贈呈しております。







「支那事変写真全集(中)」と朝日新聞昭和12年12月25日より

「支那事変画報 第十五輯(大阪毎日・東京日日特派員撮影)1月11日発行」より


 

補足説明

何故日本軍が占領した南京に市民が戻ってきたのでしょうか?日本軍は市民に暴行するような事はしないと分かっていたからです。中国の庶民は、中国人の軍隊が来るとすぐに逃げます。それは掠奪や暴行されるからです。中国の諺に「良い鉄は釘にならない、良い人は兵にならない」と言うものがあります。中国には当時、徴兵制度は有りませんから、軍が街中でゴロツキを強制的にトラックに乗せて軍に連行し、兵隊にしていたのです。信じられない事ですがこれが事実です。これを良く知っているのが戦後の台湾の方々です。彼らは「アメリカは日本に原爆を投下したが、台湾には蒋介石を投下した」と言っております。興味のある方は、戦後台湾で起きた228事件を検索して見て下さい。

 次回も南京事件について書きます。

 菅田拝 

2024/09/14

菅田代表提言 第23回 虚構の南京大虐殺 その1

 菅田代表提言 第23回 虚構の南京大虐殺 その1

令和6年9月14日

  

今回は、NHKに勤務していた中国人が、無断で「南京大虐殺と従軍慰安婦を忘れるな」と発信した事が、話題になりましたので、虚構の南京大虐殺について書きます。

まず述べておかなければならないのは、当時アメリカとイギリスが中国の蒋介石を支援する一方、蒋介石は日本の軍事行動を些細な事でも国際連盟に提訴しており、これを受けて国際連盟は日本の軍事行動に対して度々非難決議を行なっておりました。そういう状況でありながら、蒋介石はいわゆる南京大虐殺について国際連盟に非難提訴していないだけでなく、連盟で議題にさえ上がっていなかったのです。また蒋介石は外国人記者に向けた会見で、反日宣伝は大いにやっておりましたが南京大虐殺について一度も触れた事がないのです。これだけの事実を踏まえて、南京大虐殺は歴史的に無かったと理解して貰えると思います。

しかし南京で混乱があった事は事実です。何故混乱が起きたのかというと、まず蒋介石がさっさと逃げてしまいました。日本軍は南京攻撃前に降伏勧告をしていましたがそれに応じず「日本軍と徹底的に戦う」と蒋介石に啖呵をきった司令官の唐生智も逃亡してしまいました。ですから中国軍は日本軍に対して正式に降伏する事が出来なくなってしまいました。それから中国軍人達は軍服を脱ぎ捨て、南京市民の衣服を奪い便衣兵(ゲリラ)となり、南京市民が居た安全区の中に紛れ混んでしまいました。これが大変な混乱を招きます。

日本軍は安全区と呼ばれる一般市民の居住区には攻撃しませんでしたので、南京市民で日本軍に虐殺された人は皆無と思われます。日本軍は便衣兵と市民を分離する為に、まず一箇所に市民を集め、そこから女、子供、老人を移動させます。残った若い男達の中に便衣兵が混ざっていました。日本軍に従順な者は労務者として使い、反抗的な者は処断しました。

これを捕虜を殺害したと言う学者もおりますが、これは国際法を知らないだけです。まず便衣兵は捕虜になる資格が有りませんから、これを処断しても国際法的には合法なのです。捕虜になる為には、まず軍司令官が正式に降伏をしなければなりません。そして軍服を着て階級章をつけており、武器は見えるように所持している事、これらの条件を満たした軍人でなければ捕虜になることはできないのです。

南京を陥落させた松井石根大将は、親中的な軍人で、「中国の庶民は、軍閥(蒋介石、毛沢東、閻錫山、張学良等)の横暴の為大変苦労しているから、優しくするように」と、部下達に訓示しておりました。この立派な陸軍大将を、戦後連合国は、国際法を無視した極東軍事裁判(東京裁判)で、「虐殺の命令は出していないが、部下が行った大虐殺を防げなかったと」という信じられない不当な理由で死刑にしたのです。


南京・入城式で閲兵する松井石根大将(引用wikipedia)

◆補足説明

 軍閥とは中国の一部の地域を支配し、庶民に過酷な税金を課したりして搾取していました。当時の中国には統一政府はなく、内戦状態だったのです。

 次回も虚構の南京大虐殺について書きます。菅田拝


2024/08/11

菅田代表提言 第22回 廃藩置県

 菅田代表提言 第22回 廃藩置県

令和6811

  

今回は明治維新における廃藩置県について書きます。

廃藩置県の前に版籍奉還を実施しました。版籍奉還とは人民と土地を朝廷(天皇)にお返しするという事でした。しかしその後も各藩の藩主はそのままで、年貢による収入は藩に入っていました。これでは明治新政府の財政は成り立ちません。そこで廃藩置県を実施し藩の収入を政府に集め、日本を中央集権国家にしたのです。

この政策の中心人物が西郷隆盛でした。西郷の主君だった薩摩藩の島津久光は、西郷に「廃藩置県だけは絶対にやってはならない。」と釘を刺していましたが、日本の将来の為に西郷は主君に逆らってこれを断行したのです。西郷は薩摩、長州、土佐の三藩の兵士を御親兵として朝廷に献上して、廃藩置県に反抗するなら討伐するとの体制を整えていました。それでも大久保利通や木戸孝允は心配で夜も眠れない状態でした。明治天皇も大変心配されておられましたが、西郷は「おそれながら吉之助がおりますれば、御心を安んじ下さいませ。」と奉答したので天皇も深く安堵されたのです。

明治4年7月14日、廃藩置県の詔勅が出されました。この突然の命令に逆らう藩は驚くことに一つも有りませんでした。これは各藩主の明治天皇に対する忠誠心が篤かったからこそ成就したことに他なりません。ここに700年間の幕府による封建体制が、一滴の血も流さずに終焉を迎えました。

これを見た英国駐日公使パークスは「日本の天皇は神である。もしこの様な事をヨーロッパで行えば、何十年、何百年の血腥い戦争の後に、はじめて可能であろう。」と歎じて言いました。

日本の廃藩置県と似たような出来事に、ドイツ統一があります。これは首邦プロイセンを中心にビスマルクが成し遂げたものですが、25の邦国はそのまま残り半独立国でした。いくつかの邦国は、独立した陸軍や議会と法律と勲章をもち、ヨーロッパ諸国に外交使節を派遣していました。これと比べれば日本の廃藩置県がどれだけ凄い改革だったかお分かり頂けると思います。


 補足説明

 版籍奉還で人民と土地を朝廷(天皇)にお返しすると言う事は、人民と土地は天皇の所有という事になります。その根拠は日本書紀にある「天壌無窮の神勅」にあります。興味がある方は三大神勅を検索してみて下さい。菅田拝


廃藩置県の詔勅

朕󠄂惟フニ更󠄁始ノ時ニ際シ內以テ億兆ヲ保安シ外以テ萬國ト對峙セント欲セハ宜ク名實相副ヒ政令一ニ歸セシムヘシ朕曩ニ諸󠄀藩版籍奉還󠄁ノ議ヲ聽納󠄁シ新ニ知藩事ヲ命シ各其職ヲ奉セシム然ルニ數百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其實擧ラサル者󠄁アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ萬國ト對峙スルヲ得ンヤ朕󠄂深ク之ヲ慨󠄁ス仍テ今更󠄁ニ藩ヲ廢シ縣ト爲ス是務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無實ノ弊󠄁ヲ除キ政令多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕󠄂カ意󠄁ヲ體セヨ

明治四年七月󠄁十四日

2024/07/19

菅田代表提言 第21回 江戸城無血開城

 菅田代表提言 第21

江戸城無血開城

令和6719

 

  

前回の最後に西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城(1868)について述べましたが、実は西郷はその後京都に戻り、朝廷の許可を貰うのに大変苦労した事はあまり語られていません。

4年前の第一次長州征伐(1864)の時、長州藩は三家老が切腹、四参謀が斬首という事で幕府と和議を結びました。それと比べると江戸城無血開城の際に幕臣である勝が出した条件は「徳川慶喜の切腹は無し、鳥羽伏見の戦いにおける幕府の責任者もお咎め無し、しかも軍艦や武器の引き渡しは一部だけ」と、実に穏便でした。これでは朝廷や官軍が納得しないのは当然です。西郷は勝が出した条件を全て受け入れましたから、「勝に西郷は騙された」と言われても仕方ない状況だったのです。西郷は説得を試みますが無駄でした、そこで彼は「薩摩軍を連れて国に帰ります」と爆弾発言をし、漸く官軍の幹部達は渋々江戸城無血開城の条件を受け入れたのです。


江戸城無血開城談判(聖徳記念絵画館蔵、部分) 

もしも談判が決裂して官軍が江戸に進軍してきたら、勝は江戸の町人達を船に乗せて避難させ、無人になった江戸の町に火を付け、官軍を迎え撃つ作戦を考えておりました。江戸の親方衆に金を渡して、準備万端の体制を整えて西郷との談判に臨んだのです。

勝は後年「江戸城無血開城は、西郷の大至誠と大胆識によって成就した」と語っております。また晩年維新当時の事を聞かれると、涙を流して「西郷一人でなったのさ」と言っていたそうです。木戸孝允も大久保利通も大偉人に違いはないが、西郷は人間のスケールが桁違いだったようです。ですから1877年の西南戦争の時、官軍の兵士達は「敵の大将たるものは古今無双の英雄」と言っていたのです。賊軍となってしまった西郷の亡き骸を、官軍は殊の外丁重に扱ったそうです。官軍、朝敵(賊軍)と立場は違えどみな日本国の将来、国体を考えての決断、行動をとられています。

翻って現在の民主主義日本を見るとどうでしょうか、我国の尖閣諸島や、隣国台湾が中国に侵略されんとしているのに、国会では憲法や国防の事は論議されず、政治資金の話しばかりです。高級官僚は国益よりも、省益や天下り先の事を考えている状態です。現在の日本に「西郷隆盛や勝海舟のような国士は居ないのか」と叫びたくなります。

次回も幕末明治維新について書きます。菅田拝

2024/06/17

菅田代表提言 第20回 江戸時代の天皇と将軍

 菅田代表提言 第20


 江戸時代の天皇と将軍 

 

 前回は江戸時代について述べましたが今回はもう少し深く掘り下げたいと思います。


中学高校の歴史教科書には、一部の教科書を除き江戸時代における天皇の記述はほとんどないと思います。しかしこの時代、いくら天皇の権威が衰微していたとはいえ、朝廷からの将軍宣下(天皇が武家政権の長であり日本の統治大権を行使する征夷大将軍職を任ずる儀式)が無ければ征夷大将軍にはなれませんでした。では何故武士は、天皇を廃して自ら帝位に就こうとしなかったのでしょうか。それは、天皇家は日本の総本家であり、天照大御神の御子孫であり神聖不可侵の存在であるという感覚がどの時代の為政者にもあったからだと思います。源頼朝の先祖は清和天皇であり、平清盛の先祖は、桓武天皇です。日本人は先祖崇拝を大事にしますから、御先祖様が尊崇していた天皇を廃するという事は、考えられなかったのでしょう。


ちなみに、清和天皇から出た源氏系統の苗字には山田、村上、多田、清水、武田、細川、新田、小笠原などがあります。また桓武天皇から出た平氏系統の苗字には、村岡、三浦、畠山、梶原、金沢、北條、和田、千葉などがあります。まだまだありますが、これ位にしておきます。歴代天皇の皇子(みこ:男性のお子様)や内親王(女性のお子様)で臣籍降下した方々が沢山おられますから、日本人の先祖を辿れば、必ず天皇家の血筋に辿り着くと言っても過言では無いのです。


国家の核として皇室が存在するという事がどれだけ有り難く、日本の政治を安定させてきたか、例を挙げてみます。徳川家康の側近に天海という高僧がおりました。天海は家康に「天皇は政治に関与せず学問に専念してもらったらどうでしょうか」と進言しましたが、これに反対したのが大名藤堂高虎でした。「もし天皇を蔑ろにするようなことがあれば諸大名は黙っていないでしょう」と家康に諫言したのです。家康も、自分は天皇の家臣としての征夷大将軍であり、政治外交の一切を朝廷(天皇)より委任されている立場であるとの認識がありましたから、高虎の諫言を受け入れたのです。


天海上人

 

藤堂高虎

徳川御三家の一つ水戸家の二代藩主徳川光圀は、家訓として次の言葉を残しております。「もし朝廷と幕府に戦いが起きたら、朝廷に味方するように。徳川将軍家は本家であるが、日本の主(あるじ)は天皇である」


また、最後の征夷大将軍徳川慶喜は一橋家ですが、出身は水戸徳川家ですから、鳥羽伏見の戦いで錦の御旗(にしきのみはた)が出現するに及んで、慶喜は官軍(天皇の軍)に弓を引く事は出来ないと思い恭順したのです。光圀の家訓を忠実に守った結果でした。慶喜の命を受けた勝海舟は、西郷隆盛と談判して江戸城無血開城を実現させ、江戸の人達は戦火に巻き込まれずに済んだのです。西郷隆盛も勝海舟も、皇国日本をインドや清国のように列強の植民地にしてはならないとの思いで交渉した事を知らなければなりません。



後日談は次回にしたいと思います。  菅田拝






2024/05/21

菅田代表提言 第19回 民主主義の実態

菅田代表提言 第19

 

民主主義の実態



 これまで数回に分けて戦争の歴史について述べ、平和を愛すべき民主主義国の大国が、如何に戦争に深く関わっていたかを解説しました。歴史を学ぶと、民主主義は人々を幸福にしたと言えるのか、疑問に思えてきます。「封建社会は遅れていて、独裁政治は悪い。」と殆どの人が思っているようですがそれは本当なのでしょうか?

完全民主主義欠陥民主主義混合政治体制独裁政治体制

図:世界を見える化するサイトより https://mieluka.com/
 
 江戸時代は、パクス・トクガワーナ(ラテン語で徳川による平和という意味)と呼ばれて平和が250年も続きました。これは世界史的に見て大変珍しい事です。ちなみに縄文時代は1万年以上もの長きに亘り平和だったようです。江戸時代は犯罪も非常に少なく牢屋はいつもガラガラだったと言われています。

 幕末に日本と日米修好通商条約を結んだ、米国人タウンゼントハリスは「日本を開国させて外国の影響を受けさせる事が、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進させる事になるだろうか?」と疑問を呈しています。これは幕末の庶民や武士がたいへん立派で誠実な態度でハリスと接していたからこのような発言になったのです。

 また幕末の武器商人だったグラバーは、武士達に賄賂を渡そうと思っても、受け取って貰えなかったと述懐しております。江戸時代に賄賂を受け取った武士も勿論居ましたが、犯罪が露見すると大概の人は切腹したようです。恥をかくよりも死を選んだのです。

 またこの時代には武士に切り捨て御免の権限がありましたが、殆ど行われませんでした。何故なら武士は抜刀したら必ず相手を斬らなければなりません。威嚇の目的で抜刀する事は認められておらず、抜刀して相手を斬れば切腹してその責任をとらなければなりませんでした。ですから武士は庶民に絡まれるのを極力避けていたのです。武士は特権を持っていてもそれ以上にその責任は重かったのです。

 またこの時代に来日した西洋人は「日本の庶民は貧しいが皆幸せそうだ。そして子供達はみんな楽しそうに遊んでいる。これは他の国では見られない。日本くらい子供を大事にしている国はない。」と、異口同音に述べております。

 今の時代、自由、平等、人権、民主主義が至高の価値のように言われておりますが、日本の年間自殺者数は2万人(1番多い年は3万人)を越え、その内小中高校生の自殺者は400人位で先進国の中ではかなり多い方です。何故人は自殺するのでしょうか、それは連帯感が失われたからです。年功序列を重視した時代は自殺者は今よりかなり少なかったのです。年功序列と能力主義を上手く取り入れていれば、自殺はかなり減らせると私は考えております。今の時代でも封建時代に学ぶ事は沢山あるのではないでしょうか。

次回続きを書きます。              菅田拝