2025/02/09

日本外交の危うさ

 日本外交の危うさ


 日本はよく外交下手と言われております。

 国際会議で議長が苦労するのは

「如何にインド人を黙らせ、日本人に発言させるかだ」

と言われるように、日本人は外交の場であまり自己主張をしません。しかしこの傾向は、明治維新後暫く経ってからの事だと思います。

 聖徳太子は、隋と高句麗との関係を調べた上で、隋に小野妹子を派遣して対等外交を展開しました。隋の皇帝(煬帝)は、

「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書を致す恙きや」

と書かれた日本からの国書を読み激怒しますが、(天子はシナの皇帝ただ一人という考えによる)裴世清を皇帝の勅使として日本に派遣します。これは

「日本は無礼だが、高句麗と結ばれてはマズイ」

との意思表示だと思います。もし隋と高句麗が敵対関係ではなく、友好関係にあれば、聖徳太子も別の戦略を考えたと思います。



 また鎌倉時代に、世界一の大帝国元の使者が日本に来て、元への服属を求めます。その国書の最後に、

「降参か戦争か、どちらか選択するが良い」

と書かれていました。朝廷は、菅原道真の子孫の菅原長成に、名文の返書を書かせ、北条時宗に示されました。しかし彼は、

「無礼な者に御返事を与えられるのは勿体無い事です、武力で脅す者には、武力で答えましょう」

と申し上げて、返書は取り止めになります。元の使者には、もしまた使者が来たら斬ると伝えました。

 文永11年、元は大軍で対馬と壱岐を襲い、九州に上陸します。武士達が奮戦敢闘した為に、元軍は陸地に橋頭堡(陣地)を造る事が出来ませんでした。元軍は仕方なく船に戻り、大風雨で元軍は壊滅したのです。

 文永の役後、元から(健治元年)また使者がきましたが、時宗は無礼を責めてこれを斬り、国防に努めます。何故時宗は使者を斬ったのか、それは国論を一つにする為です。師匠の禅僧(無学祖元)から「煩悩するなかれ」(クヨクヨするな)という教えを受け、それを忠実に守ったのです。

 文永、弘安の二度の元軍の来襲の時、朝廷では亀山上皇が

「御身を以って国難に代わりたい」

と伊勢の大神宮に祈願され、武士達は元の船に夜襲をかけたり、徹底的に戦ったのです。この挙国一致の体制が、神国日本を元の侵略から守ったのです。  

     

 翻って現在の外交はどうでしょうか。アメリカからは、アメリカでは使用禁止の除草剤(ラウンドアップ)を買わされたり、外交圧力で残留農薬濃度の基準を6倍に緩めさせられて、アメリカ産の高濃度汚染小麦を買わされたり。また中国や韓国から総理大臣の靖国神社参拝は駄目と言われれば参拝を思い止まる。これで日本は独立国と言えるでしょうか? 政治家や官僚には、もっと誇りある日本の歴史を学んで貰いたいと思います。 

 次回は私が先日参加した元外務事務次官のトンチンカンな講演を聞いての感想を書きたいと思います。菅田拝