2024/02/05

民主主義を疑え その5

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菅田彰人代表提言 第16

 

民主主義を疑え その5 

                                                                                   令和625

 

前々回にヨーロッパの米独戦について述べましたので、今回は支那事変について述べます。この事変の最初の事件は盧溝橋事件ですが、その前に起きた西安事件について述べなければなりません。

 蒋介石

西安事件は蒋介石の部下であった張学良が共産党に取り込まれて蒋介石を拉致した事件です。これによって蒋介石は共産党と手を結ばざるをえなくなります。蒋介石は日本よりも共産党を潰さなければ駄目だと思っていました。日本は皮膚病のようなもの、しかし共産党は内臓の病だという認識だったのです。ですから蒋介石はなかなか日本軍と戦おうとしません。そこで起きたのが盧溝橋事件でした。

北京郊外の盧溝橋付近で夜間訓練中の日本軍に銃弾が撃ち込まれた事によって、国民党との間で衝突が起こります。この事件は劉少奇が指揮する共産党軍が起こしたと言われています。事件発生後「やったやった」という共産党と思われる通信を日本軍が傍受しております。何かおかしいと思った日本軍と国民党軍は、話し合って停戦します。これではマズイと思った国民党軍に入り込んでいた共産党軍は、通州と言う町で日本人の一般人を何百人も虐殺します。これに日本国民は激昂しました。ここから泥沼の戦争になっていったのです。実際に日本軍と戦ったのは国民党軍で、共産党軍は日本軍の補給部隊を襲う程度で、いつも逃げ回っていたというのが真実です。

ソ連の戦略は日本軍と蒋介石の国民党軍を戦わせ、お互いが疲弊したところで一気に共産党が権力を握るというものでした。アメリカは蒋介石を援助していましたが、共産党が有利になるような動きもしております。また日本の国内でも支那事変が終わらないように仕向けた人達がいます。近衛文麿首相そして風間章官房長官(共産主義者)、米内光政海軍大将です。


近衛文麿

陸軍の多田参謀次長(参謀長は宮様なので実質的な参謀本部のトップ)は停戦を強く主張しましたが受け入れられませんでした。満洲国建国を立案した、陸軍史上最高の天才と言われた石原莞爾将軍も停戦を強く主張し、ドイツのトラウトマン大使にお願いして停戦を実現しようとしたのですが、これも徒労に終わってしまいます。

近衛首相は後に、参謀本部が口出し出来ないように五相会議(首相、大蔵大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣)を作ります。また彼は石原莞爾将軍のイメージが悪くなるように昭和天皇に讒言(ざんげん、悪口のこと)していたのです。このように国内には「獅子身中の虫」がいたのです。


石原莞爾

またソ連は中国共産党と、なんと国民党にも援助しておりました。アメリカは国民党を援助しておりましたが、日本が敗戦した後、国民党への援助を中止して中国共産党を成立させます。ヨーロッパの戦争は滅茶苦茶ですが、支那事変もかなり滅茶苦茶です。これを理解するにはお金の流れを見なければなりません。支那事変は「日支闘争計画」によって起きたと言う説が有りますが、それは次回で述べたいと思います。  

菅田拝