菅田代表提言 第20回
江戸時代の天皇と将軍
中学高校の歴史教科書には、一部の教科書を除き江戸時代における天皇の記述はほとんどないと思います。しかしこの時代、いくら天皇の権威が衰微していたとはいえ、朝廷からの将軍宣下(天皇が武家政権の長であり日本の統治大権を行使する征夷大将軍職を任ずる儀式)が無ければ征夷大将軍にはなれませんでした。では何故武士は、天皇を廃して自ら帝位に就こうとしなかったのでしょうか。それは、天皇家は日本の総本家であり、天照大御神の御子孫であり神聖不可侵の存在であるという感覚がどの時代の為政者にもあったからだと思います。源頼朝の先祖は清和天皇であり、平清盛の先祖は、桓武天皇です。日本人は先祖崇拝を大事にしますから、御先祖様が尊崇していた天皇を廃するという事は、考えられなかったのでしょう。
ちなみに、清和天皇から出た源氏系統の苗字には山田、村上、多田、清水、武田、細川、新田、小笠原などがあります。また桓武天皇から出た平氏系統の苗字には、村岡、三浦、畠山、梶原、金沢、北條、和田、千葉などがあります。まだまだありますが、これ位にしておきます。歴代天皇の皇子(みこ:男性のお子様)や内親王(女性のお子様)で臣籍降下した方々が沢山おられますから、日本人の先祖を辿れば、必ず天皇家の血筋に辿り着くと言っても過言では無いのです。
国家の核として皇室が存在するという事がどれだけ有り難く、日本の政治を安定させてきたか、例を挙げてみます。徳川家康の側近に天海という高僧がおりました。天海は家康に「天皇は政治に関与せず学問に専念してもらったらどうでしょうか」と進言しましたが、これに反対したのが大名藤堂高虎でした。「もし天皇を蔑ろにするようなことがあれば諸大名は黙っていないでしょう」と家康に諫言したのです。家康も、自分は天皇の家臣としての征夷大将軍であり、政治外交の一切を朝廷(天皇)より委任されている立場であるとの認識がありましたから、高虎の諫言を受け入れたのです。
徳川御三家の一つ水戸家の二代藩主徳川光圀は、家訓として次の言葉を残しております。「もし朝廷と幕府に戦いが起きたら、朝廷に味方するように。徳川将軍家は本家であるが、日本の主(あるじ)は天皇である」
また、最後の征夷大将軍徳川慶喜は一橋家ですが、出身は水戸徳川家ですから、鳥羽伏見の戦いで錦の御旗(にしきのみはた)が出現するに及んで、慶喜は官軍(天皇の軍)に弓を引く事は出来ないと思い恭順したのです。光圀の家訓を忠実に守った結果でした。慶喜の命を受けた勝海舟は、西郷隆盛と談判して江戸城無血開城を実現させ、江戸の人達は戦火に巻き込まれずに済んだのです。西郷隆盛も勝海舟も、皇国日本をインドや清国のように列強の植民地にしてはならないとの思いで交渉した事を知らなければなりません。
後日談は次回にしたいと思います。 菅田拝