菅田彰人代表提言 第7回
代表世話人 菅田彰人
令和5年7月23日
終戦の日が近づくと、テレビや新聞、雑誌は大東亜戦争についての特集を組むようになります。そのほとんどは日本を断罪するものが多いので、それらに騙されないように気をつけて下さい。
日本は開戦前に勝てる戦略を完成させておりました。それはインドネシアのオランダ軍を攻撃して石油を確保、その後西へ向かいイギリスの植民地インドを独立させる、主敵はイギリスだったのです。これが陸海軍の一致した戦略でした。この戦略は、軍人のみならず、優秀な経済学者や統計学者を総動員して結成された「秋丸機関」によって作られました。
この秋丸機関の戦略通りに戦ったら、どうなったか?イギリスのチャーチル首相、アメリカのスチムソン陸軍長官、ウディマイヤー将軍は日本が勝ったと証言しております。戦後、歴史が歪められて伝えられるようになり大変残念です。
さてどこから戦略が狂ってしまったのか?日本は、アメリカの植民地フィリピンは攻略しても時期を見て返還してもいいと思っていました。アメリカとは総力戦はしない事になっていたのです。アメリカ国民の8割は戦争反対でしたから、これを最大限に利用する筈だったのに、山本五十六海軍大将は真珠湾攻撃をやってしまいました。これでアメリカの世論は激昂してしまったのです。
真珠湾攻撃は戦果はありましたが、戦略的に大失敗だったと言わざるを得ません。東條首相は直前まで海軍の真珠湾攻撃について知らされていなかったのです。真珠湾攻撃を知らされた東條首相は号泣したと言われています。戦略が狂ってしまったからです。この時代は、日本の陸海軍がそれぞれ独立していて、首相といえども陸海軍を統合指揮出来なかったのです。アメリカのルーズベルト大統領もイギリスのチャーチル首相も自国の陸海軍を指揮出来ました。日本は、米英とはシステムが違っていたのです。
また陸海軍は仲が悪く飛行機の開発も別々でした。ですから優秀な飛行機が開発出来たのですが、生産性は低かったと言われております。アメリカは機銃の大きさなどをなるべく同じくし、速やかにしかも大量に生産する事に重点をおきました。日本こそこれをやるべきだったと思います。
また日本は序列を重視し、アメリカは能力を重視しました。真珠湾攻撃の司令官南雲忠一提督は水雷の専門家でした。本来なら飛行機の専門家が司令官になるべきだったのです。再適任者は第二艦隊司令官の山口多聞少将だったのですが、先輩を差し置いて司令官にはなれなかったのです。
一方のアメリカはニミッツ提督が当時少将だったのに、中将を飛び越して大将に昇格させて、太平洋艦隊の司令官に任命しました。なんと並み居る先輩を28人もごぼう抜きしての大抜擢です。
このニミッツ提督は、東郷平八郎の大崇拝者たる弟子を自認しておりました。日本海軍は東郷元帥の弟子によって壊滅してしまったのです。ちなみにニミッツ記念館には東郷元帥ゆかりの品々が展示されております。ニミッツを語るには東郷元帥を語らなければならないという訳です。次回も大東亜戦争について書きたいと思っております。
菅田拝