菅田代表提言 第21回
江戸城無血開城
令和6年7月19日
前回の最後に西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城(1868)について述べましたが、実は西郷はその後京都に戻り、朝廷の許可を貰うのに大変苦労した事はあまり語られていません。
4年前の第一次長州征伐(1864)の時、長州藩は三家老が切腹、四参謀が斬首という事で幕府と和議を結びました。それと比べると江戸城無血開城の際に幕臣である勝が出した条件は「徳川慶喜の切腹は無し、鳥羽伏見の戦いにおける幕府の責任者もお咎め無し、しかも軍艦や武器の引き渡しは一部だけ」と、実に穏便でした。これでは朝廷や官軍が納得しないのは当然です。西郷は勝が出した条件を全て受け入れましたから、「勝に西郷は騙された」と言われても仕方ない状況だったのです。西郷は説得を試みますが無駄でした、そこで彼は「薩摩軍を連れて国に帰ります」と爆弾発言をし、漸く官軍の幹部達は渋々江戸城無血開城の条件を受け入れたのです。
もしも談判が決裂して官軍が江戸に進軍してきたら、勝は江戸の町人達を船に乗せて避難させ、無人になった江戸の町に火を付け、官軍を迎え撃つ作戦を考えておりました。江戸の親方衆に金を渡して、準備万端の体制を整えて西郷との談判に臨んだのです。
勝は後年「江戸城無血開城は、西郷の大至誠と大胆識によって成就した」と語っております。また晩年維新当時の事を聞かれると、涙を流して「西郷一人でなったのさ」と言っていたそうです。木戸孝允も大久保利通も大偉人に違いはないが、西郷は人間のスケールが桁違いだったようです。ですから1877年の西南戦争の時、官軍の兵士達は「敵の大将たるものは古今無双の英雄」と言っていたのです。賊軍となってしまった西郷の亡き骸を、官軍は殊の外丁重に扱ったそうです。官軍、朝敵(賊軍)と立場は違えどみな日本国の将来、国体を考えての決断、行動をとられています。
翻って現在の民主主義日本を見るとどうでしょうか、我国の尖閣諸島や、隣国台湾が中国に侵略されんとしているのに、国会では憲法や国防の事は論議されず、政治資金の話しばかりです。高級官僚は国益よりも、省益や天下り先の事を考えている状態です。現在の日本に「西郷隆盛や勝海舟のような国士は居ないのか」と叫びたくなります。
次回も幕末明治維新について書きます。菅田拝